ぼんやりとした思索

ある高等遊民が、脈絡もなく、おもいつきで書き綴るブログ。

たかが呼び名、されど呼び名

社会生活を送るということのうちには、「本当にしたいことをしない」ということが既に含まれているように思われる。もちろん感じ方には個人差があるだろう。だが、こういう要素を全く持たずに社会生活を送っている人などまずいないと思われる。ひとつ卑近な例を挙げてみよう。

 子供が学校に通うのは、疑いなく一つの社会生活であろうが、たいていの子供は、本当は学校になど行きたくはないであろう。そして、学校に行きたくない理由の一つは、朝起きたくないから、というものであろう。子供は、本当は早起きなどしたくはないのに、学校があるせいで無理に早起きして学校に行く。これはすなわち、本当は寝ていたいのに、それをしないで、学校に行く、ということである。

 このように、子供にとって、学校に行く、という社会生活は、つらく、腹立たしいものとなる。だが、それは悪いことばかりではない。こういう、早起きというようなちょっとしたことを我慢して、ほかの人々と同じように社会生活を送っていれば、大きな問題が起こることもなく、無難に生きていられる。しかしそういう無難な行動の枠にはまらないことをすると、たちまちそれまでの平穏な日常が非日常に転じてしまう。

 例えば、さっきの子供が、本当は起きたくないからと言って、断固起きることを拒否したとする。これを一日二日やってみると、実に楽で、彼は多分解放されたような気分を味わうだろう。しかしそれが、一カ月、二カ月と続くと、周囲が騒ぎ始める。そして、この間、彼に付与される名称は「風邪」「体調不良」から「登校拒否」になる。さらに続いて退学すれば、「ニート」になる。

 では、こうして呼び方を変えられていき、めでたくニートになった彼の気持ちにはどんな変化が起こるだろうか。それは言うまでもないことであろう。彼が仙人のような人間ならいざ知らず、彼はしょせん、起きるのが嫌だとむずかってニートになったような男である。もうその心の中は、焦りやら不安やらでぐちゃぐちゃになっていることだろう。

 ここで我々は一度冷静になって考えてみよう。いま彼の内面をぐちゃぐちゃにしているものは何であろうか。

「だから、こいつがニートになったからに決まってるだろうが。」

そう、あなたは言うかもしれない。たしかにそうである。だがよく考えてみれば、その、彼がニートになった、ということの意味がよくわからない。もし今、この彼に羽が生えて、二本足でちょこちょこはねながら、地面に落ちているものをついばんで、くるっくーくるっくーと鳴きはじめたなら、彼は鳩になった、といえるかもしれない。しかし今、ニートになった彼には、少なくとも外見上、これほど劇的な変化は起こっていない。では何が変わってしまったのだろうか。それはほかでもない、周囲の人間が彼に付与する呼び名が変わっただけなのだと、私は言いたい。そして彼の内面をぐちゃぐちゃにしているものは、この、「ニート」という呼び名であり、その呼び名を付与されたものが感じる心理的圧迫なのだと思う。ではなぜ彼は、こんな呼び名を付与されただけで心理的圧迫を感じるのか。

 それについてはまた後日考えることにしよう