ニートが読む―『屋根の上のサワン』
井伏鱒二の『屋根の上のサワン』。
これ、たしか国語の教科書にも載ってましたよね。
だから、たぶんご存知の方も多いと思います。
でも一応、内容をご紹介。
まず、この短いお話(文庫で9ページ)の主人公「わたし」。
詳しい説明はありませんが、明らかに独り暮らし。しかもそんなに若くない。
そういう「わたし」が、ある日、沼地の岸で苦しんでいる一羽のがんを見つけます。
その鳥は、何者かによって銃で撃たれた様子。左の翼を自分の血で真っ赤にして悲鳴を上げています。
「わたし」はそのがんを拾いあげ、「よし、元気にしたろう!」と決心して、家に連れ帰ります。
それで、そのへんにある洗面器やら、石炭酸やら、ヨードホルムやら、鉛筆削りの小刀やらで即席の手術を敢行。なんと、本当にがんを元気にしてしまいます。
このがん、元気になってくると、「わたし」が外出するとき、門のとこまでチョコチョコついてきたりして、何ともかわいらしい。こうしてちょっと寂しげな「わたし」にいい相棒が出来ました。
彼はこのがんをサワンと名付けます。
そのサワンちゃん、元気になってくるにつれて「わたし」にとって少し気がかりな行動をとり始めます。
月の明るい夜更け、家の屋根に上ってけたたましい声で鳴くんです。
いったいなにごとだって、様子をみると、サワンちゃん、空に向かってなにやら必死になって鳴いてる。その先を見ると、三羽のがんが飛んでいる。
そうです。サワンはもう元気になったんで、そろそろ空に飛んでいきたいんですね。でも、「わたし」が、飛べないように羽を短く切っちゃってる。
そんで仲間に向かって「連れてってけろー」「坊やはお家でねんねしてなー」なんてやってるわけです。
「わたし」にしてみればもう、そんな事情だってのはすぐぴんと来てますから、危ないからおりてこい!なんて無茶苦茶なこと言って、必死になって仲間との会話を遮ろうとする。
これ以後、「わたし」はちょっと必死になっちゃってね。羽を、もうそれ以上切ったらケガするってぐらいまで切っちゃったりする。(人間でいうところの深爪みたいなね)
そんな「わたし」の気持ちをよそに、サワンは、夜、屋根の上で鳴くのを習慣化させていきます。
それで、いよいよクライマックス。
ある晩、サワンはひときわかん高く鳴いてる。もう号泣してるようにきこえるくらい。
それを家の中できいていて、「わたし」の心も変わってきます。
もう飛び立たせてやろう。明日、毛生え薬ならぬ羽生え薬かなんか塗ってやろう、なんて考える。
ところが、その翌日、サワンはどこにもいない。もう飛び立っちゃった後でした。
おしまい。
というお話です。
★いよいよ本題
さて、このお話。
ニートである私が読むとどうなるか。
それはね。
これは、ニート(とくに男)とその親(とくに母親)の関係を言い当てている!
(byわたし)
ということになるんです。
ニートって、もちろん本人の問題もあるんでしょうけど、100%本人が悪いなんてことはまず絶対にありえない。いわば親とか家族とかとの連帯責任なわけです。
で、人がニートになる原因って、いろいろあると思うんですけど、その一つとして、家庭の外で生きていく上でのスキルが不足しているってのがあるわけでしょう。
でも考えてみれば、スキルがないのは練習してないだけの話。そして、なぜ練習してないのかといえば、もちろん本人がサボってるのもあるわけだけど、親にも問題がないとは言えない。
料理の練習をしようと思って包丁を持つと、危ないからよしなさい。
洗濯しようとすると、失敗すると臭くなるから、あっち行ってなさい。
バイトしようとすると、お勉強する時間がなくなるから、やめなさい。
そんなことしてるうちに、結局、時間ばかり過ぎていく。自立する自信も意思もなえていく。
これを親の側からみるとね、もうお分かりかと思いますけど、さっきの「わたし」の心境でほとんどすべて語りつくせる。
要は、かわいいサワンちゃんにどっかにいってほしくない。ずっと自分の手元にいてほしい。そういうことなんでしょうね。
だから、羽を短くちょん切っちゃって、飛べないようにしちゃう。
そうしとけば、がんの足なんてへなちょこですから、遠くになんて行けっこない。
じゃあ、サワンの側からすればどうすればいいか。
もう夜、屋根の上に登ってね。仲間に「連れてってけろー」って鳴くしかありませんね。「そのうち飛べるようになるから―」って。
と、いうわけで…
なんか話が妙に具体的になっちゃいましたけど、
これ別に、私自身の体験を語っているわけではありません。
まあそのへんは読んでくださった方のご想像にお任せしますけどね。